今日も本のお話です。
「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著
ベストセラーといわれる本を、私は、今までめったに買った事がありません。
でも、この本は、昨日急いで買いに行ってしまいました。
おとといの夜、「ビデオニュースドットコム インターネット放送局」を見てて、
こりゃ、読まないかん、と思ってしまったのです。
ビデオニュースドットコム インターネット放送局
(ジャーナリストの神保哲生氏、社会学者の宮台真二氏が司会をしている
インターネットの放送番組で、私は以前からよく見てます。)
この一般受けしそうもない「生物と無生物のあいだ」というタイトルの本が、
昨年5月に発売されて、もう45万部も売れているのだそうです。
分子生物学者、福岡 伸一さん。とつとつとした話し方ですが、
その一つひとつの言葉に、長年研究を続けてきた‘重み’みたいなものを感じていました。
本を読んでみて、「たしかに文章、うまいなあ」と思いました。
しかし、それよりもまして、内容が、おもしろい。
いわゆる「研究者、学会」といわれる、業界の内情を暴露したような、前半部分は、
野口英世からはじまって、DNAを発見したワトソン、クリックにいたるまでの物語も
じつに興味深いのですが、
ここでは私は、一番印象に残った、次のことを紹介してみます。
「機械的生命観」と「動的平衡生命観」
と書くと、少し難しそうですが、要するに、
私たちは、「生命は分子というミクロなパーツ、部品で出来上がった分子機械のようなもの」・・と思いがちです。
これがデカルトが発想した「機械的生命観」の現在形。
そこから「遺伝子を組みかえる」あるいは「臓器を移植する」そして最近の「ES細胞で新たに臓器を作る」
という発想が生まれています。その発想が、科学や医学、そして農業にまで大きな影響を及ぼしているのが現実の姿です。
しかし、はたしてそうなのだろうか?
最先端生物学が発見したものは、生命と言うものは「機械的生命観」だけでは語れないものだよ、
そしてその発想だけで進むとは、かなり危ういものがあるよ、ということ。
そのことを福岡伸一さんは、慎重かつかなり大胆に主張しているのです。
そのキーが‘動的平衡’、たとえば、こんな言葉・・・「お変わり、ありまくり」
よく私たちはしばしば久闊を叙するとき、よく「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、
半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、
お変わりありまくりなのである。
かつてあなたの一部であった原子や分子は、もうすでにあなたの内部には存在しない。(163頁)
私たちは、外界から隔てられた個体として生きている、と感じているのが普通だけど、
私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。
しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、
常に分子を外部から与えないと、出て行く分子との収支があわなくなる。(163頁)
そして‘時間の流れ’
生命はテレビのような機械ではない、このたとえ自体があまりにおおきな錯誤なのだ。
私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸にそって流れる
後戻りのできない一方向のプロセスである。(263頁)
実験で、遺伝子の一つをなくした状態で受精させたマウスは、事前の予想を外れて、
その遺伝子の不備を、なんらかの働きでカバーして、やがて不備のない正常に成長したマウスとなった。
という実験結果から・・・
私たちは遺伝子ひとつを失ったマウスに何事もおこらなかったことに落胆するのではなく、
何事もおこらなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡がもつ、やわらかな適応力と
なめらかな復元力の大きさにこそ感嘆すべきなのだ。
結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に行うことの不可能性だったのである。(272頁)
ここまで、書いてみると、あたりまえのこと、かなと思えてしまいます。
福岡氏は「臓器移植は蛮行ですね」と言います。
さきほど、テレビでAC公共機構というスポンサーによるCMで、
「臓器提供意思表示カードを持ってください」というメッセージが流れていました。
以前、「私は臓器移植には疑問があるから、意思表示カードはもたないよ。」
こんなことを言うと、よく娘たちから非難されていたことを思い出します。
私たちは、今一度、「生命とは何か」に思いを巡らす必要があるような気がします。
777円のこの本、じゅうぶん元がとれた本でした。
福岡氏はこの本のエピローグに次のように書いています。
私たちは、自然の流れの前に、ひざまずく以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、
なすすべはないのである。